二上山は雄岳と雌岳という二つのピークを成す独特の山容の山で、春分と秋分の日にこの山の谷間に太陽が沈むという特別な光景が見られます。古代の人々は、この光景に「魂は二上山超えて西に安住する」
という観念を重ね、死後の世界を想像しました。二上山はこのように太陽信仰と死生観が交わる“聖なる山”=聖地とみなされました。
二上山の西側(大阪府側)に「王陵の谷」 と呼ばれる地域があります。ここには、敏達・用明・推古天皇といった飛鳥時代の天皇陵や聖徳太子の廟が散在しています。斑鳩から奈良県境の穴虫峠を越えてこの地にいたる道は「太子道」と呼ばれ、聖徳太子の棺が太子町の叡福寺太子廟に運ばれたと伝えられています。
また二上山の雄岳の近くに大津皇子の墓があります。この墓が大津皇子の墓であるという確証はありませんが、“聖なる山”の山頂付近に墓があるというのは興味深く、歴史のロマンを感じさせます。ちなみに、大津皇子は天武天皇と後の持統天皇の同母姉大田皇女との間に生まれました。一方、天武天皇との間に生まれた我が子の草壁皇子を天皇にしたいと考えた後の持統天皇は、謀反の疑いで大津皇子を非業の死へと追いやりました。この大津皇子の死を悼んで、大津皇子の実姉大伯皇女が詠んだ短歌はよく知られています。
“うつそみの人にあるわれや 明日よりは二上山をいろせ(弟背)とわが見ん”
奈良時代から平安時代にかけて、浄土信仰が広がりをみせます。仏教に釈迦の死後、正法・像法をえて末法に至るという考えがあります。この末法の世が1052(永承7)年から始まるとされました。香芝市出身の源信は『往生要集』を著し、浄土信仰を説きます。人間には生前の行いによって死後に生まれ変わる6つの世界=六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)があり、浄土信仰によって極楽浄土に導かれるとしました。この浄土信仰により、二上山に沈む夕日が極楽浄土の象徴ととらえられるようになりました。このように、古代の太陽信仰は浄土信仰へと転換していきました。
こうした流れの中で、聖徳太子は観音菩薩の化身として崇められ、叡福寺太子廟は「一度参詣すれば極楽往生が約束される聖地」とされました。
また当麻寺では、毎年4月14日に練供養が行われます。この行事は25体の菩薩が西方浄土に模した曼荼羅堂から人間世界の娑婆堂に赴き、中将姫を蓮台に救い上げ再び浄土へ還るというもので、人の臨終に際して阿弥陀が観音、勢至菩薩がお迎えに来るという来迎思想が色濃く反されています。ちなみに、当麻寺には中将姫の伝承があり、藤原南永の郎女である中将姫が蓮糸で曼荼羅図を織りあげたとされています。
修験道の始祖とされる役小角(えんのおづぬ)は葛城山で修行し修験道を広めたとされています。古代の葛城山は二上山から金剛山にいたる山々の総称と考えられていました。この修験道の行場として葛城28宿があります。和歌山県の友ヶ島から大阪府と和歌山県、奈良県の県境を南北に走る山脈に沿って28の行場があり、王寺町の亀の瀬が28番宿になります。26宿の経塚は二上山の雄岳の山頂近くにあります。
二上山には岳のぼりの習俗がありました。これは毎年4月23日に祈雨と書いた布や幡を掲げて岳の権現に水をもらいにいくというもので、当麻寺、二上村、下田村、五位堂村ほか6ケ字が水郷を形成していました。
この二上山を水源とする竹田川が産廃によって汚染されているのは水神に対する冒涜にほかなりません。
【参考文献】
「聖徳太子信仰と「太陽の道」―二上山を巡る竹内街道の思想と信仰」(藤谷厚生、四天王寺大学紀要68号、2019年6月)
「聖徳太子と信仰の道」(香芝市二上山博物館、2008年)
「役行者、二神の上の峯に登る~二上山と信仰の系譜」(香芝市二上山博物館、2012年)
『山岳信仰』(鈴木正宗、中公新書、2015年)