二上山山麓に屯鶴峯(どんづるぼう)はあります。
・成因
約1500万年前の二上山の火山噴火よる火砕流や火山灰などが堆積し、火砕流堆積物や凝灰岩の厚い地層(ドンヅルボー層)を形成しました。その後、地殻変動によって大地が隆起し、長年にわたる雨風の侵食と風化作用を受けることで、そのドンヅルボー層が現れ、現在の白い峰や奇岩が連なる地形となりました。
当時の火砕流などの噴火の様子が露頭として観察できる貴重な場所で、奈良県の天然記念物となっています
・名前の由来
白い岩肌連なる中に松が生えが、まるで鶴が屯(たむろ)しているように見えることから「屯鶴峯」と名付けられました。
二上山と共に金剛生駒紀泉国定公園の一部としてハイキングコース・近畿自然歩道もあります。
・巨大な地下壕
屯鶴峯の地下にあります。第2次大戦末期本土決戦に備えて、陸軍航空総軍が八尾・大正飛行場の航空指令所として掘り、使わずに終戦となった。合計2㎞に及ぶ長大な地下壕は、貴重な戦争遺跡で保存が問題になっています。ここも屯鶴峯の凝灰岩で掘りやすいことなどもあったと思われます。
・屯鶴峯の360℃パノラマ映像(市のHPより)
ササユリの特徴
ササユリは中部地方から九州にかけて見られる日本固有のユリです。山野にひっそり自生し、花はラッパ形で、色はふつう淡紅色ですが白色も見られます。清楚な花で独特の芳香があります。6月頃に開花を迎えます。
ササユリは古事記や日本書紀にも登場し、古文献でユリといえばササユリを指すといわれています。
夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ(大伴坂上郎女 万葉集巻八―一五〇〇)
群落をなす二上山のササユリ
最近近畿の山ではササユリを見かけることは少なくなりましたが、二上山では展望台あたりにまとまった群落が見られます。通常花は1輪か2、3輪ですが、鹿谷寺跡では8輪の花が見られます。
絶滅しつつあるササユリ
ササユリは適度な光線の半日陰の状態が適地ですが、町場では、開発が進みその生息地が失われてきました。里地ではかつては田んぼや茶畑のまわりなどによく見られましたが、最近は耕作放棄地が広がり、草刈りが行われなくなって、笹や樹木が生い茂り急速に消えています。長野県では準絶滅危惧種に指定されています。山でも野でもやがて絶滅の危機を迎えるかもしれません。その意味で二上山のササユリは貴重な存在だといえます。
奈良と大阪の県境に位置する二上山は、双耳峰(そうじほう) といわれる特徴的な山容もあり、古くから多くの文学作品に取り上げられてきました。とくに奈良からは日の入りが見える位置にあることから、古代において太陽信仰や、死者の魂が宿る場所と神聖視されていました。
万葉集には、二上山を題材にした歌が多数収録されています。天武天皇の子である大津皇子(おおつのみこ)が、謀反の疑いをかけられて二上山の麓で自害した際に、姉である大伯皇女(おほくのひめみこ)が詠んだ悲嘆の歌が有名です。
・「うつそみの、人なる我や、明日よりは、二上山を、弟(いろせ)と我が見む」
(この世に生きている私なのに、明日からは二上山を弟として見るのでしょう)
江戸時代以降現代まで、二上山は多くの俳句に詠まれています。
・二上山時雨れて遂に見失ふ (水原秋櫻子)
近現代においても、二上山は小説や紀行文に登場します。折口信夫(釈迢空)の「死者の書」は當麻曼荼羅縁起と中将姫伝説、大津皇子の伝承から着想を得て書かれた奈良時代を舞台にした小説。小説では二上山と浄土信仰、大津皇子、死と生、現実と幻想がかさなりあう独自の世界が描かれています。歴史小説家である司馬遼太郎は、自著『街道をゆく』の中で、二上山と大津皇子にまつわる悲劇について触れています。また、谷崎潤一郎の『細雪』では、大阪に住む登場人物の視点から、遠景としての二上山が描かれています。
「大阪の郊外の西の空に、いつも見える二つの峰が、二上山だと知った。あれが、大津皇子が自害した山かと、ふと哀れを感じた」(司馬遼太郎、『街道をゆく』より)
二上山麓の田園の風景です。