奈良と大阪の県境に位置する二上山は、双耳峰(そうじほう) といわれる特徴的な山容もあり、古くから多くの文学作品に取り上げられてきました。とくに奈良からは日の入りが見える位置にあることから、古代において太陽信仰や、死者の魂が宿る場所と神聖視されていました。
・「うつそみの、人なる我や、明日よりは、二上山を、弟(いろせ)と我が見む」
(この世に生きている私なのに、明日からは二上山を弟として見るのでしょう)
謀反の罪で24歳の若さで自害させられた悲劇の皇子・大津皇子が二上山に改葬された際、姉の当麻(大伯)皇女が「明日からは二上山を弟と思って見よう」と哀傷歌を詠みました。これ以降、この山は「悲劇の墓標」としてのイメージを決定づけられます。
二上山の麓にある当麻寺を舞台にした能の作品。極楽浄土を憧求する中将姫の前に、彼女が織り上げた「当麻曼荼羅」の奇蹟とともに、阿弥陀如来や観音菩薩(化身の尼)が現れて優雅に舞う、中世の浄土信仰と結びついた劇文学です。
芭蕉が故郷への旅の途中で二上山麓の当麻寺を訪れ、「僧朝顔幾死にかへる法の松」などの句を詠みました。いにしえの万葉の悲劇や中将姫の伝説に思いを馳せながら、みすぼらしい(野ざらしの)旅路の中で不変の自然と無常観を対比させています。
民俗学者であり詩人でもあった折口の代表的小説。大津皇子の非業の死と中将姫の曼荼羅伝承を、近代の卓越した感性と民俗学的知見によって融合させた幻想文学の最高峰です。
折口信夫(釈迢空)の「死者の書」のほか、歴史小説家である司馬遼太郎は、自著『街道をゆく』の中で、二上山と大津皇子にまつわる悲劇について触れています。また、谷崎潤一郎の『細雪』では、大阪に住む登場人物の視点から、遠景としての二上山が描かれています。
「大阪の郊外の西の空に、いつも見える二つの峰が、二上山だと知った。あれが、大津皇子が自害した山かと、ふと哀れを感じた」(司馬遼太郎、『街道をゆく』より)
文学史の記述問題でもしばしば深く問われるのが、この1939年(昭和14年)に発表された折口信夫の『死者の書』です。
折口信夫は、歌人「釈迢空」としての顔も持つ、稀代の知識人でした。彼は学生時代に二上山の麓にある当麻寺の中之坊に滞在しており、この土地に深く根づいた霊性に強いインスピレーションを受けて本作を執筆しました。
舞台は東大寺の大仏開眼(752年)に沸く奈良時代。 二上山の雄岳頂上に葬られ、50年もの間、暗闇の中で眠っていた「滋賀津彦(しがつひこ=大津皇子がモデル)」の魂が、ある日突然もたらされた「水の音」によって目覚めるところから物語は始まります。彼はかつて自らが処刑される直前、一瞬だけ目をつなぎ合わせた気高い美女「耳面刀自(みみものとじ)」の面影を求め、現世へと這い出ようとします。
一方、藤原南家の気高き姫君「郎女(いらつめ=中将姫がモデル)」は、一心不乱に仏像を写し取る日々を送っていました。春の彼岸の中日、彼女は二上山のふたつの峰の間に沈みゆく夕日の中に、神々しくも哀切な「尊い俤(おもかげ)」を目撃します。その幻影に吸い寄せられるように、彼女は女人禁制の結界を越え、二上山の麓の寺(当麻寺)へと歩みを進めてしまいます。
つた、つた、つた――。
暗闇から迫る死者(滋賀津彦)の魂。しかし、郎女が求めた「尊き俤」とは、キリストのようでもあり、阿弥陀仏のようでもある、絶対的な救済の象徴でした。二人の魂が交錯する中で、郎女は死者の怨念を鎮めるため、そして自らのビジョンを具現化するために、蓮の糸を染めて壮大な「曼荼羅(まんだら)」を織り上げていきます。最終的に、滋賀津彦の執着の魂は曼荼羅のなかに衣服として織り込まれ、静かに救済(鎮魂)されていくのです。
この作品の圧倒的な魅力は、単なる歴史小説に留まらない「文体」と「視覚構造」にあります。
古代の意識の再現:冒頭の「した、した、した、と閼伽(あか)の水の滴る音――」に代表されるように、オノマトペを多用した独特の文体は、読者を現世から古代の、それも「死者の主観」へと引きずり込みます。
山越阿弥陀図(やまごしあみだず)の具現化:鎌倉時代などに多く描かれた、来迎する阿弥陀仏が山の向こうから上半身を現す仏画のイメージが、そのまま「二上山の二つの峰の間に現れる俤」として小説内で実体化されています。
二上山は「生と死、現世と浄土の境界線」。折口信夫は、万葉の昔からこの山に堆積していた「死者の無念」を、見事に一篇の美しいタペストリー(曼荼羅)へと昇華させたのです。